「わからない」ことが、生きる喜び!かも。

つやつやの空想読書週間。

「わからない」ということ。

茂木健一郎さんの「脳と仮想」を読んだあと、続けざまに養老孟司さんの「バカの壁」・「超バカの壁」を連続で拝読〜。このお二人に共通している知的探求へ向かうスタンス。そのあまりの素晴らしさに、つやつやはすっかり感服!!お二人ともに「理解する・わかる」ということがいかに困難であるかを「わかって」いて、決してうぬぼれたり慢心することなく、あくまでも謙虚な姿勢で一人の人間として知的探求を続けているのです!
つまり「わからない」んだということを、本当に良く「わかっている」!!!(「わからない」ということ自体が「わからない」人たちは、そこで思考停止に陥り、「バカの壁」が築かれる...。)だからこそ、五感をフル動員して全身全霊でもって知的探求をしている。そういった素晴らしいスタンスが有るからこそ、お二人の話には、いつも学問の喜びがぎゅっと詰まっているんですね〜!( ´∀`)大感激!



茂木健一郎さんのクオリア日記「わかったこととわからないことの比率」という記事から引用。

よく、「脳の神秘は何%くらいわかっているのか」と聞かれるが、
100あってそれを隅からつぶしていくということではない。
「一つわかると十わからないことができる」というのが実感である。


「わかっている率」は研究の進行とともに逓減していくのではなく、
つねに「わからないこと」が切り開かれるので、
わかったこととわからないことの比率は、いつもかわらない。


「わかる」という「ハンドル」がつかなければ、
そもそも何がわからないかもわからない。
わかることは、わからないことの水先案内人なのである。


人生について知れば知るほど、わからないことも増えてくる。
ある人について見聞きするほど、その人のことがわからないとわかる。
一つ「わかる」の枝が伸びると、そこから十の「わからない」の枝が伸びる。


〜〜「わかったこととわからないことの比率」茂木健一郎 クオリア日記〜〜

「わからない」は喜び!空想できる喜び!!!


「わからない」からこそ、探求する喜びが産まれマス!
「わからない」からこそ、あらゆる可能性が生まれマス!!
「わからない」からこそ、仮定や仮想、空想が生まれマス!!!


もし「全てがわかる」ことができたとしたら、世界はとっても退屈なものになってしまわないでしょうか...?(全知全能の神なんて、退屈なだけでしょ?!)
自由な可能性は断たれ、伸びやかに空想をすることもできなくなってしまうかも...。そう考えていくと、「わからない」ということは、実は喜びの種だったのデス〜!!!今日もまたまた大発見!!!☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚



茂木健一郎さんから小林秀雄さんへのラブレター!「脳と仮想」

小林秀雄講演集「信ずることと考えるこ

脳科学はココロをどう捉えるのか?

茂木健一郎さんの「脳と仮想」。茂木健一郎さんが以前から言っていたクオリアってなんだろ?という興味とともに、気になっていた『脳科学というものが「意識/精神/心/魂」の問題にどこまで迫れているか』を知りたくて読み進めました。結論から言うと、なんだ全然わかってなかった....。科学でどうしても説明できない、「感じる」という現象を「クオリア」という概念でとりあえず言い換えてみただけって印象...。ガッカリ。でもこの本の主題である「仮想」という概念、これは今、つやつやがぼんやり思っている世界観(唯心論よりの認識世界)の延長(?)として興味深く読む事ができましたけど。

茂木健一郎小林秀雄から引き継いだ、科学的世界観との闘い

でもこの本を読み終わってわかったのは、この本は茂木健一郎さんから小林秀雄さんへのラブレターなんじゃないかなっていうこと。本の中で何度も小林秀雄さんの講義の言葉を引用し、その思想の素晴らしさを訴える茂木健一郎さん。それはもう陶酔と言えるかもしれない。小林秀雄さんが科学的世界観と闘いつつ、どうにかして捉えようとしていた「精神」の問題。近代化学によって打ち立てられた「計量できる経験」という巨人に、人間の「主観的経験」の切実さで異議を唱えたのです。そして今、茂木健一郎さんは脳科学の研究、そしてクオリアという概念で、このモンダイを解明しようと格闘しているのです。
この本は、小林秀雄さんの思想の輝き、そしてその遺産を脳科学によって引き継いでいこうとする茂木健一郎さんの情熱が確かに息づいています。それが垣間みられただけで、この本は一見の価値あり!デス。
実は、この本に小林秀雄さんの事が書かれていると知って、それでつやつやはこの本「脳と仮想」を読むことにしたのです。


小林秀雄講演集「信ずることと考えること」の興奮

小林秀雄さんの講演「信ずることと考えること」。この音源が今、imeemにアップされていてネット上で聞く事ができるのです。(情報元は「空想ラビュリントスのブックマーク」)つやつやは2回聞きました!全部聴くと118分。でもあっという間です。もっと聞きたい!と終わるのが残念になります。ほんとうに感動できる講演。考える事、学ぶ事の興奮、喜びが確かにここにはあるのです。ぜひぜひ聞いて欲しいのです!!!
◎これ以上はうまく説明できないので...詳しくは他のBLOGで(音源へのリンクもあります)→好きになったメモ/ネットで試聴できる小林秀雄講演集「信ずることと考えること」


《参考》
茂木健一郎「脳と仮想」『小林秀雄と心脳問題』〜「今、ここ」から解放されたものの存在とは?
信ずることと考えること:小林秀雄



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もしかして、人間は科学に横恋慕している、かも。

つやつや空想ドロップ。


寝ぼけまなこで、科学と人間と宗教の関係を考えてみた。

今回の記事は、いつもぼんやり夢見心地なつやつやの寝言でありマス。普段から夢日記ばかり書いていたり、ありもしない空想にうつつを抜かしているから、ついに精神が風邪をひいた?いや前回言ったように中二病でしょうか。(しかしながら、しばらくこの手の記事と考察がつづきそうな予感でいっぱいデス...。)でも日本人は宗教アレルギーが強いし、こういう事は本当はもっと注意して発言しなくちゃですけど。
そんな言い訳のもと、まとまりも無く科学と人間と宗教についての考察、いやいや雑感アレコレ?を書き殴り!!!タコ殴り!!!( ゚д゚)



そもそも世界中に宗教があるのはなぜでしょう?それは明らかに、人がそれを必要としたから、それが無いと生きられないからではないでしょうか。人間が生きるうえで絶対に切り離せない不安や苦悩というものを、なんとか中和するために必要とされた社会的なシステム、いわば「精神中和機構」、それが宗教というものの正体じゃなんじゃないでしょうか?そうやって宗教は人間社会の基盤として千年、二千年、いやいやもっとずっと昔から、この社会で機能してきたと思いマス。
では現代社会はどうか?現代社会というのは、たかだか300年だかしか歴史がないニューフェイスである「近代科学(?)」というものを、宗教の代行物、もしくは後継者として選択したんだと思うんデス。科学万能主義という信仰、言うなれば「科学教」が誕生したのデス。それは「この世界、そして宇宙を科学的客観的な法則によって、全て解明することが可能!」という明快でいて絶対的な教義を公言し、瞬く間に世界中の人々がそれを受け入れるようになったんです。そして人間は、科学教信者となることで科学教への帰依と引き換えにして、多大な恩恵を授かることができたのです。だって科学技術の発展で、ニンゲンは人工的に「魔法」を手に入れたのですから!!!飛行機という魔法。電気という魔法。通信という魔法。(携帯電話って凄いっていまだに思う)原油という魔法の液体が世界を後押し!!!この科学教を形成しているものを分かりやすく説明してみると、科学的法則は世界の真理を預言する「聖書」、そして科学者は科学原理主義の布教と発展に励む預言者(または神の子?)、そして「資本主義経済」は科学教の世界を滞りなく進展させる世界的ミサ、かもなのデス。

科学はココロに到達できない。

世界をすっかり作り替えた万能の筈の「科学」。でもおかしな事に旧来の宗教はなくならなかった。キリスト教イスラム教も仏教もヒンズー教も、今も健在。なぜなら「科学」はひとのココロ(精神)に踏み込めなかったから。脳の活動や、遺伝子の配置は、科学的に計測可能で少しずつだけど解明されてきました。だけど、どれだけ脳のニューロンの活動を計測しても、なかなかココロは正体を見せない。
科学的な視点から宇宙の活動や運動は計測でき法則化できます。しかし人間の主観的経験には、科学は全く歯が立たなかったのです。でも考えてみればそれは当たり前。もともと科学とは、計測できるものだけしか扱わないと決めて、「計量できる経験*1で世界を限定的で一元化なものとして捉える事によって、初めて意味をなすものだからです。だから初めから、計測できない主観や主観的経験なんてこの世に存在しないもの、または取るに足らないものだとすることが、科学教の絶対条件だったのです。

人間に踏み込めない科学、寄り添う宗教。

でもでもでもでも、考えてみるとこれは少し変です。僕たち人間が世界に接するのは主観であり、僕たちの活動は全て主観的経験でしかないのです。全てが主観的経験でできた世界にいきる僕たち。そして初めから、「計量できる経験」の中にしか存在できない「科学」。科学はその生まれつきの宿命によって、僕たち人類へ干渉することはできないんです。
でここでもう一度、旧来の「宗教」を考えてみます。そうすると、宗教は初めから人間の主観的経験である、生の苦悩に向き合ってきました。そして社会を支える「精神中和機構」として数千年ずっと人類とともに歩んできました。宗教は主観的経験に寄り添いながら、そしてこころの内側に、ずっといたのです。(あっ、でもここで注意していただきたいのは、つやつやは決して宗教を奨励している訳ではないのデス。ただ、そういう歴史なんじゃないかと思っただけ。)
つまり、この関係を大げさに行ってみるとですね、こうです。「人間」は「宗教」というココロの伴侶がいながらも、「科学」という新参者(しかも若い)に、ちょっと横恋慕してしまっている状態なのデス〜。



大スクープ?!!!人間には宗教という本妻がいながら、科学を恋人にしていた?(人はそれを禁断の恋(不倫)と言う。)

そんな訳で、書くのが疲れたので、上記のような強引で適当なチャチャを入れたまとめで今回の記事を終わります。初めに書こうと思っていた事からかなりずれてしまった気がするケド...。
最初に書こうと思っていたのはですね、『宗教と科学に対して、もっと公平な態度で僕たちは接した方がいいんじゃないか?』という問題提起(?)の筈だったんですよ、本当はね....。
まあでも、そもそも公平な態度って何か?が大問題な訳ですがね。「世界は主観的な見方でしか認識できない」とか言っているのに、客観というか中立、公平なんて態度が可能なのかが甚だ疑問ではあるのですが...。でも、できるだけ、イデオロギーや先入観、共同幻想のようなものを排除した態度を心がけたくはあります。色眼鏡を外す。「見る」のではなく、「観る」、または「見抜く」。心眼で観るといった感じデス...。
しかしながらもう、何が言いたいの全くかわからなくなってきました...。(( ;゚д゚))アワワワワ !!!

でもめげずに、この続きを今後も書いていく気で満々デス。(´・ω・`)




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*1:小林 秀雄さんの「信ずることと考えること」より、「計量できる経験」というコトバと概念を引用しました。

楽しく中二病をこじらせてみる、みたいなこの頃。

中二病地蔵尊

ここ最近の自分の思考回路とその足取りをあれこれ総点検。そしたらそしたら...。(( ;゚д゚))アワワワワ !!!いつの間にかメディアリテラシーとか環境問題とか言い出しちゃってる自分がいるお?!!!(いやもちろんちゃんと考えて書いてるんだけどさ、だからこそ後で見たら赤面な心配がネ....。)でも本気で考えて書いた訳だから、記事削除して取り繕ろうような行動は慎みたいと思いマス、出来る限り...。


で、気づいた。いつのまにやらつやつやは、ひどく「中二病」を煩ってるんじゃないかと?思い返すと今までに反抗期らしい反抗期が無いままで現在へとに至ったんですけど、今頃来たか?! 「罹ったかなと思ったら中二病」 なるほどなるほど。 中二病のガイドライン中二病総合スレッドまとめ) を見たら「環境問題に積極的になり、即絶望。」って症例も。前回の記事とか、丸っきりそのままじゃないですか....。(( ;゚д゚))
でもつやつやが敬愛している痴豚様も中二病をこじらせたままでありながらも、あんな立派な?大人になれたんですし、ここはひとつ発想を変えてみようと思いマス。せっかく中二病にかかったんなら、それを楽しまなきゃ損損!「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損そん。」 そんなココロ持ちになってマス。
そんな訳ではなはだ不勉強で世の中の事をちっともわからないつやつやですが、最近は自分のこのアイデンティティの源泉に迫れるヒントを探しています。 「自己のアイデンティティの探求」これぞ中二病の鏡!なテーマ!!! 赤面ものデス。まさに王道、文句なし。こいつはやりがい有りですね〜。そんなこんなな事情を経て、ここ1ヶ月の間、書籍やネットなどでいろいろ探っています〜。

ルーツ・オブ・ザ・ジブン?

まずは民俗学の入門書を図書館から借りてくることから初めて、そこから神道、仏教に思いを馳せたり。なにぶん不勉強なつやつやです。入門書の類いで目からうろこがボロボロ。その後に「宗教から世界を捉える試み」を分かりやすく解説していた書籍を買ってきては、多神教の「神道・仏教」とか一神教ユダヤ教キリスト教ヒンズー教」の成り立ちや変遷を学んだり。そして神が科学で否定されたかに見える現代社会が、いかに宗教の規範で動かされてるかを考えたり。比較文化論として「日本人とユダヤ人」(著:イザヤ・ベンダサン山本七平)で提唱されていた「日本教」という概念もエキサイティング!とか思ったり。これってこの手の日本人論では古典なのか〜。そういうのから考えていくと、日本における世間体とか常識ってのが、日本人の行動規範になっていて、これが外国に置ける宗教の代わりをしてるんだな!とか思ったり。こういうのをいろいろ知っていくと、次々にいろいろな疑問が沸いてきて...。類化性能?共同幻想?唯幻論?前言語的?無心?無分別智?無意識?...てことはフロイトユングあたりも調べないとかしら?(心理学も哲学も全然わからないんだよなあ...。)....っていうかそもそも、ココロとは何ぞや?とかなってきて。茂木健一郎さんの言う、脳科学における「クオリア」も調べてみようっと。つやつや的には、以前にも書いたようにココロ(精神)とアタマ(脳)は別のものだっていう直感?というか信念みたいながあるけどどうなのかな?どうも小林秀雄さんの思想がその辺りについてのヒントになりそうな予感がしていマス...。あとは東洋哲学的なアプローチもぼんやりと模索してみたい今日この頃。
そんな感じで、中二病を煩いつつも、それでも「明るく楽しい 中二病!を合い言葉にして、もうしばらく病んでみようと思いマス。そして「自分流に信じる」方法、「つやつやの空想哲学」を模索していきたいな〜っと。それがつやつやの空想クオリティ〜。


そういやつやつや、この四月で「中学22年生」になったんでした。かなり年期が入った中学生になってきました。留年してなければ、の話ですけどネ。(( ;゚д゚))アワワワワ !!!もしかしたら小学28年生かも知れない恐れも...。



◎最近、読んだもの/// 人類を救う「レンタルの思想」 松井孝典対談集 / 仏教・神道・儒教集中講座(井沢元彦) / ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座 宗教紛争はなぜ終わらないのか(井沢元彦) / 無我と無私 禅の考え方に学ぶ「弓と禅」(オイゲン・ヘリゲル) / 日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平)
◎これから読む予定/// ものぐさ精神分析(岸田秀) / 無心ということ(鈴木大拙) / 脳と仮想(茂木健一郎) / 考えるヒント(小林秀雄) / 日本の10大新宗教(島田 裕巳) / バカの壁(養老孟司) / ぴんぽんぱん ふたり話(瀬戸内寂聴&美輪明宏 対談集)

環境問題は、実は環境の問題ではなかった?

つやつやブロッサム




環境に何が起こっているのか?と周りをキョロキョロ。

えっと、ちょうど1週間ほど前のことになるんですけどネ、このブログ用に新たな記事を1つ書いてたんですよね。まあ4時間位かかって苦労して長々と書き上げたんです。内容はっていうと環境モンダイにまつわるアレコレみたいな感じデス。でも書き上げてから旧に冷静になって全部削除しちゃいました。何してるんだか?
無いアタマをあれこれ使って考えてはみたものの、冷静になると、環境モンダイについて自分は何かを語るほどの知識が無さすぎるなと気づきました!....気づくのが遅すぎですが、とにかく全然未熟者なのデス。そんな中、自分の発言に責任が持てなさすぎで恐ろしくなりました...。「あるモノゴトの環境への影響はどうか?」っていう事を考えても、いろんな研究者や自然保護論者や一般人が、それぞれの立場でもってそれぞれの信念に基づいて発言をしています。ある説は明らかに偏った見方だと思ったり、こっちの説は正しそうと感じたり、でもでもあの説だって一理あるかもと感じたり...。ネットや書籍を漁ってはあれこれキョロキョロ。あっちでこう言えば、こっちでああ言う...。結局なにがなんだか分からなくなって大大大混乱。つやつやの脳内メモリーの上限を超え過ぎです。

環境問題は違うモノにすり替わってる?。

「環境問題」とはヒトコトで言うとするなら、地球上の諸要因の相互作用の結果で引き起こされる地球環境の変化の総体のコト、だと思う。。それはあまりに多くの要因が複雑に絡み合っていて、そのメカニズムをすっかり解明する事なんてあたり前だけど誰にもできっこない。だから研究者によって全然違う予測がなされてしまいマス。そして更に問題をややこしくしているのが最近のエコブーム。企業がエコを謳うが消費者の選択に影響を与えると分かってきてから、企業はエコを謳うのにもう必死。しかも経済は広告イメージで簡単に動くものみたいですから、本当にエコかどうかではなく、いかにもこれはエコだとイメージさせる事が重要になってるみたいですし。エコが環境問題ではなくビジネス手段にいつの間にかすり替えられてる...。
さらにさらに経済レベルだけでなく個人レベルでもタイヘンです。「エコのこと考えてます私」ってことがなんか最先端?みたいな風潮で。ロハスって歯の浮いたようなコトバがまるで魔法のようにメディアで踊っている...。エコ、ロハススローライフ...。なんて口当たりが良くて便利で素敵な呪文でしょう?!そろそろ、お猿さんでも言い出すようになるかもしれませんネ。例えば最近の「エコバッグ」ブームにはビックリして開いた口が塞がらないぞっと思ったり。とりあえずエコバッグを雑誌の付録に付けるのだけはヤメテくれませんか?!えっ、駄目?読者に好評なんですか?....(((( ;゚Д゚)))...わかりました....。
どうやら「エコバック」の効果がよく分からなくなってきました...。「エコバッグ」や「エコ」のもともとの素晴らしい理想は、個人のちっぽけな満足感という「エゴ」にでもすり替わってしまったんでしょうかね?誰が言ったかは知りませんが、「エコ」は所詮「エゴ」とは、なかなか良く言ったものです。このモンダイでも推進派と反対派の主張がぐるぐる渦巻いてしっちゃかめっちゃか。こういうことは「バイオ燃料」や「割り箸」とかのモンダイでも同じように論争が続いて、もうカオス。これについ
て、どっちが正しいのか、またはどっちもどっちなのか?ううう...。もう全然わかりません。(( ;゚д゚))アワワワワ

だから、「問題」をどう捉えるかというのが一番の「問題」なのデス。

一体全体、何を信じればいいのやら...。自分の立ち位置がなんともオボツカないのデス。前に伊集院光氏(痴豚様)のラジオにゲストで出ていた茂木健一郎が、脳科学の研究について「一つわかると十わからないことが出てくる」という例えをしていたんですけど、これは今の社会全体に言える事な気がします...。知れば知るほど分からなくなっていくという無限地獄、仏教で言うところの無間地獄...。

しかもですよ、環境問題だけじゃなくて原発問題や捕鯨問題とか、この手のモンダイの一番困難なところっていうのは、実は議論が行き着く先は結局のところ「感情論」になってしまうトコロだと思うんですよね...。一見すると、科学的な立場で研究データなどを引き合いに客観的に論争をしているようでいて、でも結局は自分の信念や持論みたいなトコロに寄りかかった上での偏った目線から収集した「科学的根拠」の押し売りでしかなくて....。だって良く考えていくと、「モノゴトを客観的に見る。」とか「あらゆる側面からモノゴトを多面的に捉える」とかそういう理想ってのは実はただの幻想でしかないと思うんです。僕は「客観」なんて視点は、架空の概念でしかないんじゃないかと最近疑ってるんですよ。だってどうやっても僕たちは「自分」という存在からは逃れられないのだから、同じように「主観」からも逃れられない筈です。だからもしも「客観」という視点があるとしたら、それは一神教における造物主である“神”にしか持てない視点だな〜と感じるのです。そして当然ながら僕たちは造物主ではない訳でして...。(ちょっと話が脱線。)
mixiとかの環境系コミュやら2ちゃんねるやら覗いてみると、推進派と反対派の議論は結局のところ相手への個人攻撃に発展してしまいもう目も当てられないですもの....。ああいうスレとか覗いちゃうと、かなり凹む.....。もうホラーみたい。いやいやホラー以上に恐いのなんの...。結局のところ、一番怖いのは、環境破壊でも放射能でもなく人間そのものなのだなっていう最悪の結末になってしまうのです....。( ゚д゚)!!!!しまった!こんな結論になるなんて.....(( ;゚д゚))アワワワワ 酷スギル....(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル





◎そんな訳で、「どういう立ち位置で世界を見ればいいんだろう?」という難問を抱え支離滅裂なまま終わらせていただきマス。あしからず。


◎後日談
つやつや 『僕、君のこと、この前はちょっと言い過ぎたよ。ゴメンね( ゚Д゚) 』
エコバッグたん 『ううん、もういいの。誤解を招くような行動をしてしまった私も悪かったんですもの...。』
つやつや 『エ、エコバッグたん....。(ポッ)  (*´Д`*) これからはエコバッグたんのコト大切にする! 』



チベット?!今まさに僕たちにはメディア・リテラシーが問われているなと。

前回の記事世の中を信じることはムズカシイ。【メディア・リテラシーを考える】は1年前に書いたものです。その後はできるだけ、「メディアを批判的に読み解く」姿勢でメディアに接するよう心がけてマス。そんな中、今いちばんメディア・リテラシーを考えさせられる現象が世界規模で起こってますね。そうです、チベット問題の事です。世界のパワーバランスやら政治や経済やらの介入による「大人の事情」の宝庫。この問題ほど何十年にも渡ってねじ曲げられたメディア報道しかなされていない問題というのも、そうそう無いかもしれませんねぇ。新聞もテレビもどんだけ腰抜けか?とかびっくりします。日本政府にいたっては、もういつものことですが...。
そんな中での、あの善光寺の英断。これは日本から世界に発信することができたメッセージとしてとっても嬉しいですね。日本の政治からは出来ないことを仏教の立場からやってくれて、ほんと世界に誇れるよと。2ちゃんねる風にいうと、善光寺GJ!!!!!って感じで喜ばしいデス。チベット自治区問題を解決するには、このオリンピックというタイミングしか無いように思います。何十年と苦しみ続けているチベット自治区を世界規模の運動で救えたら、これはとても素晴らしいことの筈です〜。
よし!ここはひとつ、チベットの人々のことを祈って今日は寝てみようかなと。( ゚д゚)おやすみなさい。

世の中を信じることはムズカシイ。【メディア・リテラシーを考える】

世界を信じるためのメソッド―ぼくらの


ぼくらの時代のメディア・リテラシー

「よりみちパンセ」っていう理論社のYA新書シリーズ。確かもう3期ぐらいまで発刊されています。このシリーズのキャッチコピーみたいなのが、「学校でも家でも学べない、キミの知りたい、リアルでたいせつな知識が満載!!」ってなっているんですけど、なるほど納得のラインナップです。自分が中学生の頃にこのような良書のシリーズに出会っていたら、どんなによかったろう!おまけに、装丁が祖父江慎さん、装画が100%ORANGEってとこが、またまたステキです。(以前、青山ブックセンターで開催された原画展を見に行きました〜。)しかしながら素敵なシリーズなのでつやつやはずっと気になっていたにも関わらず、今まで読んだ事はありませんでした。で、このまえ古本屋さんで見つけて買ったのがこの、「世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー」(著/森達也)。シリーズ全部がそうなのですが、中学生向けで分かりやすく書いてあって、文字も大きくてすぐに読み終えられます。だけどもさっくりと読める軽さはあっても、そのテーマの重みはズシンズシンと身体にひびきますヨ!
ほぼ日刊イトイ新聞→「よりみちパン!セ:特設ページ

世界を信じる?

※以下はamazonのカスタマーレビューより。世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシーの内容について内容が的確に述べられていたので転載させていただきマス。

世界の出来事を正しく、きちんと知るために、テレビをはじめとするメディアはとても重要。でも、メディアは間違えることがあるし、たとえ間違いでなくても、その報じ方によっては、受け手の印象が全く変わってしまう。メディアの情報を鵜呑みにして間違った世界観を持たないためには、「メディアを批判的に読み解く」ことと、「メディアを主体的に受け取る」ことが必要になってくる。この括弧で囲んだことが、メディア・リテラシーの意味。メディア・リテラシーは、メディアを有効に活用するために、そして正しい世界観を持つために、なくてはならないメソッド(方法)である。
以上のテーマが、松本サリン事件やファシズムによるプロパガンダの例を通して、分かりやすく語られていきます。「メディアが公正中立で客観的だなんて、とんでもない間違い。何を報道するかしないか、どんなふうに編集するかで、すでに人の主観に左右されているのだから」という著者の主張がすっと頭に入ってきました。
また、若い人たちに語りかける文章の調子をとっている。で、それがちっとも鼻につくものでなく、親しく心に響いてきたところ。すとん、すとんと腑に落ちてゆく論旨の展開と相俟って、実に風通しのいい文章でしたね。2007年6月3日付の朝日新聞の読書欄で、作家の梨木香歩さんが取り上げていた文章に関心を誘われて読んだ本。理論者の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊。  By 風さん

うん、世界を信じたい!でもでも...。

今、僕たちはほとんどがテレビを通して、世の中のことを把握しています。自分の目で見るような実体験なんてすごく少なくて、外国の事や事件や芸能ゴシップやら、そのどれもが全部、メディアからもたらされたものたちばかり。それが当たり前すぎて、普段考える事も無かったけど、改めて考えるととっても恐ろしいことです。しかしながら、一旦、そういう目で報道に接し始めると、疑いだしてしまい、もう切りがありません...。(( ;゚д゚))アワワワワ...。う〜〜ん、困りました...。怖くて、のんびりカワイイもののコトだけ考えて生きていけなくなってくる....。世の中の闇がこっちに迫ってくる...。これってもしや、フォースの暗黒面が.....。暗黒面に引き寄せられてる?......(( ;゚д゚))アワワワワ...。でもでも、考えていかなきゃならないコト。「世界を信じるためのメソッド」は、オトナが読むとより考えさせられてしまう、そんな本です。つやつやもそろそろ真面目なコトも考えなきゃならないお年頃なのですネ...。


※このエントリーはつやつやビジョンblogに以前掲載した記事「世の中を信じることは、とってもムズカシイ。」(初出2007.6.28)を加筆修正したものです。※同じ著者による「いのちの食べかた」も必読!カモです。