「アタマ/ココロ」「男性原理/女性原理」とか。

まず最初に断っておくと、物事を二元論で考えるのは良くない!と常日頃から感じるんだよね。「善/悪」とか「生/死」とか。二元論ってのは物事を一面だけにバッサリ編集して論じる事でしかないから全然ものごと全体は見えないから。(そして二元論こそ、今回のテーマである男性原理的な考え方でもあるし。)そうは思っていても、二元論って解りやすいし説明しやすいから、ついつい利用しちゃう。そんな訳で、このブログでも二元論的だったり、極論的にものごとを述べることをお許しくださいマセ。

で、本題に入リマス。世の中を捉える時に最近よく感じる事は、世界は「男性原理」ばかりだなってこと。(でもちゃんと調べてないから、ちゃんと「男性原理」を解ってないんで勝手な自己解釈になってたらお許しください。)

「男性原理」ってのは要は、物事の差異性を捉えることが特徴

分析、論理、分離、差異、個別化、能動性。これは「システム化能力」とかいわれたりしてるみたい。

「女性原理」ってのは、物事の類似性を捉えることが特徴

統合、融合、調和、芸術、創造性、受容性。


二昔まえ位に、「話を聞かない男、地図が読めない女」とかそのテの本が売れて、男脳/女脳(男性脳/女性脳)とか話題になったけど、まあそれも根本は同じ考えだったよね、たぶん。
つまりこれらが指し示す事って言うのは、物事に対して、「ココが違う」と思うか、「ココが似てる」と思うかだという事だと思うけど。これは似ているようで、真逆の反応。全然違う。
科学が発達したり、経済や政治とか文明の発展っていうのは、男性原理のおかげ。でも精神的に幸せを感じられる社会になるには、世の中の経済や利便性を追い求める男性原理の社会システムにはちょっと休憩してもらって、競争も戦争も優劣を付けるのも全部止めて女性原理的な社会に向かって欲しいな〜〜〜と。


でここでやっと、前回の記事で述べた「アタマで考える/ココロで感じる」に繋がるんだけど、
「アタマで考える」=男性原理///「ココロで感じる」=女性原理
こんな図式も成り立つなあと。

で、本当はもっとちゃんと説明をしないと、全然伝わらないんだろうけど(汗)、ちゃんと説明する能力が不足しすぎてるし、強引に終わりますよっと。

「類化性能/別化性能」とか。

でちょっと話が変わって、「類化性能/別化性能」って、最近知ったばかりのコトバについて。inuimuさんの記事で学びました。民俗学柳田國男さんのお弟子さんだった折口信夫さんが唱えたコトバみたいです。(唱えたっていっても呪文じゃないよっと。)人間の思考能力とか文化の形成を「別化性能」と「類化性能」というものに分けて考えているのですが、これもまさに同じ考えなのかなあと。「ココが違う」の別化性能と「ココが似てる」の類化性能。

◎類化性能=「共通点」を探す思考法=芸術的思考=前近代的世界観=境界を隠す闇=文脈の「飛躍」=「無意味」=詩性=(現代における)非常識
◎別化性能=「ちがい」を探す思考法=科学的思考=近代的世界観=境界を暴く光=文脈の「繋がり」=「意味」=物語性=(現代における)常識上記はinuimuさんのブログ記事「にてるを探す夢想家と、ちがうを探す現実家」から引用。
なるほどな〜。



追記//下記の文章も、なるほど〜〜と唸らされたので、引用させていただきます。(関行宏さんのブログふぐり日記「折口信夫と類化性能」より)。僕たちも古代人の思考に戻らねば!
「折口氏の研究によると、古代人は「類化」で物事を考えていたらしい。たとえば人間と熊は同じ動物だとして一体に考えることなのだという。対して近代人・現代人は、「別化」で物事を考えているという。人間と熊は違う生物として科学に辿り着くのが近現代の価値観である。」



なんでも全部、一緒になっていくなっと。


で、似てるを探す心持ちでいろいろと考えていくと、なんでもどんどん繋がっていくなあと思ったり。
以前、書いた記事《一神教多神教http://d.hatena.ne.jp/TSUYATSUYA/20080317も繋げちゃえっと。
●「アタマで考える」=男性原理=別化性能=一神教
●「ココロで感じる」=女性原理=類化性能=多神教