「愛着」について、「音楽」から考えてみた。

PHILHARMONY 感じるなつかしい未来


音楽には大きさと重さ、手触りが必要なんじゃないの?

昔からちょっとココロに引っかかってるコト。
それは「音楽」には、触れることができる物質としてのきちんとした「大きさ」が有った方がいいんじゃないかってこと。もちろんもちろん「音楽」自体はカタチのないもの。それはわかる。でもいわゆるミュージシャンの発表したアルバムとかシングルとかそういうものには、きちんとした「大きさ」があった方がいいと思うんだよな〜。

これはジャケットというカタチで実現しているんだけども、この大きさがいわゆるCDジャケットはちょっと小さ過ぎる気がするんですよね。やっぱりレコードジャケットぐらいの大きさが、音楽にふさわしいと思うんです。ずっしりとしたレコードジャケットこの大きさ、重量感、手触り。これがその中に封じ込められた音楽と僕たちのコミュニケーションに必要なんじゃないか。その重さや大きさが音楽の重みにもなっていて。そして手に持ったずっしりとした感じや、手触り。さらにここに汚れがついたり、角が折れたり、日に焼けたりして、これらが僕たちの大切な「愛着」に変化していくと思う。「愛着」というココロの深いところまで降りていくには、やっぱりレコードの大きさが必要なんじゃないかと。

その後レコードからCDへとメディアが変わってサイズが縮小したことってのは、音楽への僕たちの(心理的な)接し方にも変化をあたえてるんじゃないかと。音楽が軽くなって、音楽が消費する商品でしかなくなっていく。さらに最近は、i-podとか音楽がデジタル化しちゃってi-tunesでダウンロードして聴いたりするんだろうけど、遂に触れるカタチが全然なくなってる。これで大丈夫なの?音楽たちはこれで満足なの?みたいな。
レコードだった頃の音楽と、デジタルの音楽は、もう全然別のものになちゃったんじゃないかと。もう昔のように「愛着」の対象としての音楽は消滅してしまっていて、今や音楽が消費される「商品」に甘んじることを良しとしたってことなのかな?コンビに行ってもどこ行ってもBGMで音楽が溢れてる昨今ですけど、これこそは音楽が消費される商品になった証かも。
こんな感じの疑問がずっとココロに引っかかってたんで、書いてみました。


つまりデジタルは「愛着」を必要としてないのかなと。

いろんなものが利便性を追求してどんどんコンパクトになっていってる訳だけど、音楽でも映像でも文学でも遂にデジタルになるに至っては、完全に大きさを脱ぎ捨ててしまってますね。パソコンやi-podに何万曲でも何万冊でも入る。これはアナログの時にはあった筈の「愛着」という「ココロ」の拠り所を切り捨てた、便利な「商品」として「アタマ」で楽しむものになっているってことじゃないだろうか?
この文章が載っている、このインターネットなんて完全にデジタルだから、大きさ、重量感、手触りのみならず、世界の距離や時間まで完全に消し去ってる。インターネットで見られるページには奇麗だったりセンスが良かったりするものはゴマンとある。だけど、「愛着」を持てるページっていわれても、ぱっと思いつかない〜。


まあつやつやが古いタイプのニンゲンといわれれば、それまで。アナログなものが持つ物質感とそれへの「愛着」に固執してるだけかもしれないデス。けど人というのがアナログな存在だから、完全にデジタルな環境は人にストレスを与えると思うんだよな〜。電脳空間に生きられるわけじゃないしさ。

まあそんな訳で、今回も相変わらずまとまりのないまま、強引に終わらせていただきます〜。


.