どうやら人生はじっと佇んでいて、時間がまわりを巡っているようです。

人生はもしかして小さな庭なんじゃない


前回の「時間はもしかして丸いんじゃないか論。」で時間は丸いかもって話をしたんですけど、今回はそこに関連して、つやつやの思う「人生」というやつのカタチについて書いてみます〜。

人生という遥かな旅路?なんかもう涙目。

「人生。」人生ですよ、人生。このなんだか凄そうなものをつやつやが思い浮かべる時、以前は道みたいなものをイメージしてました。人生とは時には曲がり角や坂もある、そんな道を一歩一歩踏みしめて進む、遥かな旅路というイメージですかね〜。そこを僕は進んでいるんだと。困難な道を切り開いたり、回り道や行き止まりの道を引き返したり、僕たちは苦労して野を超え、山を越えて進む。人生とはなかなか思い通りには行かない道行き。立ち止まってしまったら、前に進めなくなる、そして後から来た人に追い抜かれていく。ああ、なんだかこれじゃ、水戸黄門のオープニング曲 *1です。♪♪♪泣くのがいやなら〜  さ〜あ〜歩け〜♪♪♪もうなんか涙目です。必死です。だから追い抜いたり、追い抜かれたり、必死に人生の旅路の競争のなか、頑張って歩かなきゃならないんだと思っていました、それが人生なんだなと。
つやつやが去年ハマりにハマった「赤毛のアン」でも、主人公アン・シャーリーは人生の大きな決断をする最終章*2でこんな事を言っています。「私の未来は、まっすぐな一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。」いや〜、このアン・シャーリーの決断、生き方には泣けましたよ。話が脱線してきたけど..。

人生はもしかして小さな庭なんじゃないか論。

だけど最近は人生に全然違うイメージを思い浮かべるようになりました。人生はそんな風に前に進むものなんかじゃなくて、初めからここにただずっと存在していて全く動かないものなのじゃないか。それは言ってみるならば「小さな庭」みたいなものだと思うようになったのです。僕が産まれる前から、その人生という小さな庭はずっとそこに存在している。そう考えてみると、僕たちはどこにも旅立つ必要なんてないと気づきます。旅路じゃないのだから当然、競争したり、坂道を上ったり、道に迷ったりとかそんな面倒はないのです。小さな庭はいつだって僕のそばに変わらず存在しているからです。
そしてその小さな庭には四季が巡ります。以前も言ったように時間は丸いので、その庭の周りをまわることもある筈です。春夏秋冬の季節と時間が巡って、草花が芽吹いたり、花をつけたり実をつけたり。いろんな動物や昆虫もやってきます。鳥の運んできた種から、次の春になって思いがけない花が咲いたりします。そういう植物や動物達との出会いのなかで生きること。そして当然ですが、小さい庭は僕の庭である前に、動植物みんなの庭でもあります。たくさんの関わり合いのなかで人生という庭の季節は移ろうのです。

ちなみに僕が人生は庭なんじゃないか?と思い至った、そのキッカケ。それは、どいかやさんの絵本『ハーニャの庭で』でした。これはハーニャという猫とニンゲンと暮らす庭の四季の移ろいを描いた物語です。季節の移り変わりや草木や生きものの1年を描いている、この小さな小さな物語は、しかしながら森羅万象のような大きな大きな世界の息づかいが聞こえてきます。そしてつやつやはハッとしました。この庭、この庭はそのまま人生なんじゃないかなって。



そんな風に人生をイメージしてみるとどうでしょう、なんか肩肘を張らずに生きていけばいいんだなって気がしてくるから不思議です。そして大切なことっていうのも、おのずと変わってきます。どれだけ遠くに行けるかとか、どう楽な道を見つけるかとかそういうことじゃなくなります。自分の庭に何を植えてみようかとか、今日はどんな昆虫や小動物が訪ねてくるかとか、自分の庭を見るのが浮き浮きしてくると思うんです〜。
ウッキウキの能天気〜!
☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚

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*1:水戸黄門のオープニング曲「〜ああ人生に涙あり〜 」人生楽ありゃ 苦もあるさ 涙のあとには 虹も出る 歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道を ふみしめて 人生勇気が 必要だ くじけりゃ誰かが 先に行く あとから来たのに 追い越され 泣くのがいやなら さあ歩け

*2:赤毛のアン》第38章「道の曲がり角」