もしかして、人間は科学に横恋慕している、かも。

つやつや空想ドロップ。


寝ぼけまなこで、科学と人間と宗教の関係を考えてみた。

今回の記事は、いつもぼんやり夢見心地なつやつやの寝言でありマス。普段から夢日記ばかり書いていたり、ありもしない空想にうつつを抜かしているから、ついに精神が風邪をひいた?いや前回言ったように中二病でしょうか。(しかしながら、しばらくこの手の記事と考察がつづきそうな予感でいっぱいデス...。)でも日本人は宗教アレルギーが強いし、こういう事は本当はもっと注意して発言しなくちゃですけど。
そんな言い訳のもと、まとまりも無く科学と人間と宗教についての考察、いやいや雑感アレコレ?を書き殴り!!!タコ殴り!!!( ゚д゚)



そもそも世界中に宗教があるのはなぜでしょう?それは明らかに、人がそれを必要としたから、それが無いと生きられないからではないでしょうか。人間が生きるうえで絶対に切り離せない不安や苦悩というものを、なんとか中和するために必要とされた社会的なシステム、いわば「精神中和機構」、それが宗教というものの正体じゃなんじゃないでしょうか?そうやって宗教は人間社会の基盤として千年、二千年、いやいやもっとずっと昔から、この社会で機能してきたと思いマス。
では現代社会はどうか?現代社会というのは、たかだか300年だかしか歴史がないニューフェイスである「近代科学(?)」というものを、宗教の代行物、もしくは後継者として選択したんだと思うんデス。科学万能主義という信仰、言うなれば「科学教」が誕生したのデス。それは「この世界、そして宇宙を科学的客観的な法則によって、全て解明することが可能!」という明快でいて絶対的な教義を公言し、瞬く間に世界中の人々がそれを受け入れるようになったんです。そして人間は、科学教信者となることで科学教への帰依と引き換えにして、多大な恩恵を授かることができたのです。だって科学技術の発展で、ニンゲンは人工的に「魔法」を手に入れたのですから!!!飛行機という魔法。電気という魔法。通信という魔法。(携帯電話って凄いっていまだに思う)原油という魔法の液体が世界を後押し!!!この科学教を形成しているものを分かりやすく説明してみると、科学的法則は世界の真理を預言する「聖書」、そして科学者は科学原理主義の布教と発展に励む預言者(または神の子?)、そして「資本主義経済」は科学教の世界を滞りなく進展させる世界的ミサ、かもなのデス。

科学はココロに到達できない。

世界をすっかり作り替えた万能の筈の「科学」。でもおかしな事に旧来の宗教はなくならなかった。キリスト教イスラム教も仏教もヒンズー教も、今も健在。なぜなら「科学」はひとのココロ(精神)に踏み込めなかったから。脳の活動や、遺伝子の配置は、科学的に計測可能で少しずつだけど解明されてきました。だけど、どれだけ脳のニューロンの活動を計測しても、なかなかココロは正体を見せない。
科学的な視点から宇宙の活動や運動は計測でき法則化できます。しかし人間の主観的経験には、科学は全く歯が立たなかったのです。でも考えてみればそれは当たり前。もともと科学とは、計測できるものだけしか扱わないと決めて、「計量できる経験*1で世界を限定的で一元化なものとして捉える事によって、初めて意味をなすものだからです。だから初めから、計測できない主観や主観的経験なんてこの世に存在しないもの、または取るに足らないものだとすることが、科学教の絶対条件だったのです。

人間に踏み込めない科学、寄り添う宗教。

でもでもでもでも、考えてみるとこれは少し変です。僕たち人間が世界に接するのは主観であり、僕たちの活動は全て主観的経験でしかないのです。全てが主観的経験でできた世界にいきる僕たち。そして初めから、「計量できる経験」の中にしか存在できない「科学」。科学はその生まれつきの宿命によって、僕たち人類へ干渉することはできないんです。
でここでもう一度、旧来の「宗教」を考えてみます。そうすると、宗教は初めから人間の主観的経験である、生の苦悩に向き合ってきました。そして社会を支える「精神中和機構」として数千年ずっと人類とともに歩んできました。宗教は主観的経験に寄り添いながら、そしてこころの内側に、ずっといたのです。(あっ、でもここで注意していただきたいのは、つやつやは決して宗教を奨励している訳ではないのデス。ただ、そういう歴史なんじゃないかと思っただけ。)
つまり、この関係を大げさに行ってみるとですね、こうです。「人間」は「宗教」というココロの伴侶がいながらも、「科学」という新参者(しかも若い)に、ちょっと横恋慕してしまっている状態なのデス〜。



大スクープ?!!!人間には宗教という本妻がいながら、科学を恋人にしていた?(人はそれを禁断の恋(不倫)と言う。)

そんな訳で、書くのが疲れたので、上記のような強引で適当なチャチャを入れたまとめで今回の記事を終わります。初めに書こうと思っていた事からかなりずれてしまった気がするケド...。
最初に書こうと思っていたのはですね、『宗教と科学に対して、もっと公平な態度で僕たちは接した方がいいんじゃないか?』という問題提起(?)の筈だったんですよ、本当はね....。
まあでも、そもそも公平な態度って何か?が大問題な訳ですがね。「世界は主観的な見方でしか認識できない」とか言っているのに、客観というか中立、公平なんて態度が可能なのかが甚だ疑問ではあるのですが...。でも、できるだけ、イデオロギーや先入観、共同幻想のようなものを排除した態度を心がけたくはあります。色眼鏡を外す。「見る」のではなく、「観る」、または「見抜く」。心眼で観るといった感じデス...。
しかしながらもう、何が言いたいの全くかわからなくなってきました...。(( ;゚д゚))アワワワワ !!!

でもめげずに、この続きを今後も書いていく気で満々デス。(´・ω・`)




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*1:小林 秀雄さんの「信ずることと考えること」より、「計量できる経験」というコトバと概念を引用しました。