世界と自分との距離を、ぼんやり考えてみた。

「概念」にすっかり取り囲まれてしまい


「考える」こと「感じる」こと「信じる」こと...。

最近、「考える」ということを考えたり、世界と自分との距離をどう捉えるかということを考えたりしてます。中二病万歳!!!まず、あれこれ考えてみたことを、とりとめなく列挙。



◎わかるということ

何かを「わかる」ことは、その周辺に存在する「わからないこと」の存在に気づくということ。それは結局のところ、わからないということをわかること。詳しくはコチラの記事

◎考えるということ

ひとつの設問があって、その設問には対応するひとつの適切な解があり、そこへ到達するための方法としての「考える」という技術。僕たちは学校でずっとそれを教えられてきた(ように思う)。「考える」とは、論理的・理性的・科学的な手順を踏んで最も適切な解に到達する方法だと信じられている(ように思う)。でもそういう「科学的思考」とでも言うべき方法による「考える」は、本当の「考える」ではないのではないか?と最近感じている。それら「科学的思考」というものは、論理的・理性的・科学的思考と親和性の良い「顕在意識」上での思考法でしかない。本当の「考える」とは、五感を総動員し身体全体で向かっていく事なのでは?意識の深いところに根を下ろし、顕在意識も潜在意識も身体も全てを研ぎすますこと、それが本当に必要な「考える」方法じゃないだろうか?また、これは「考える」と「感じる」を融合させた精神活動という言い方もできる。そしてそれはもしかしたら「禅」に近いものかもしれないナー。( ゚д゚)全然違うか?(もしその境地まで行けたとしたら、「考えずして考える」みたいな状態かもネ。あまり考えると禅問答みたいになってくる...。)

◎感じるということ

このブログで度々発言している「アタマで考える」と「ココロで感じる」という概念。(詳しくは《コチラの記事》。)「考える」が顕在意識を出発点にするとしたら、「感じる」は五感と身体性をもとにした潜在意識を出発点とした精神活動(のようなもの)。「感じる」という行為が持つ五感での感受性、そして身体性、そして非言語的な精神活動こそ、頭でっかちになりがちな現代人にとって、再認識すべき重要なものだと思う。

◎信じるということ

これは「以前の記事」で書いてるんだけど、僕たちは近代科学を社会基盤とした「科学教」とも言うべき、科学信仰の世界で生きている。(「科学教」が世界に広がる以前には、社会基盤として「宗教」が機能していた筈。)現代の「資本主義経済」は、「経済」「大量消費」「学歴」「年収」「外見」「不動産」とか実にさまざまな、無数の信望者を抱える「信仰」で動いている。よく考えれば「お金」もそうだ。「お金」は、みんながそこに価値があると信じて疑わないから価値がある(と思う。経済のことはよくわからないけど)。だからこれは「お金教」。そうしたいろいろな形態の「信仰」にはひとつの共通する要素が存在するように思う。それは、一度信者になってしまうと、それ以降はその信仰を信じて疑わなくなってしまうということ。その対象を信仰することは、その対象に依存してしまうこと。だからその価値を疑わなくなる、考えなくなる。それは思考停止状態である。僕たちは「お金教」に入っているから、そもそもお金を疑ったりしない、つまりそういうこと。つまり、信じるということは、依存であり、服従、そして思考停止という危機をはらんだ行為なのだと思う。

再び、「考える」ということ。

あれこれ本を読んで、そこからイメージを広げていくことが、相変わらずのマイブーム。前回の記事で書いたように、「わかる」ということにつて考えてみたり、情報、知識と知恵そして智慧の違いに思いを馳せたり、「信じる」という行為について考えたり、そもそも「考える」ということが何かを考えてみたり。「唯識」と「中観」...。無心?無我?そうそう「無分別智」ってのも気になる?
しばらく前から、「いろいろ発見!好奇心!!」を人生のテーマの一つにしてますので、そんな根源的なものに空想のスポットライトを当ててます〜。で、そんな空想の中から産まれてくるイメージ、それをどうにか言語化して文章化してみたいなと頭をひねったりする日々が続いてるんですが、全然まとまらない。まあ、自分のなかで全く消化できていないものなのですから、無理もない。しかもその対象というのが実にあやふやで実体を持たない虚ろな姿カタチをしていて、言うなれば『鵺(ぬえ)』みたいなものときてるのですから、最初からまとまる筈なんてないんですがね。そんな哲学だか宗教学だか人類学だか民俗学だか心理学だかが取り扱うようなそんなわからないもの。もし仮に、それを言語化したり理論立てて簡単にスパッとまとめられる能力がつやつやに備わっていたら、こんなグラフィックデザイナーなんてカッコよさげなだけな職業に就いてませんよ!(怒)......ついつい取り乱してしまいました、ゴメンナサイ。( ;゚д゚))この職業、本当は嫌いじゃないんデス...。


そもそもつやつやは、言語や理論の統制からの逃亡!みたいな願望(?)を抱えていて、その逆のベクトル(?)であるように見えた「美術」の道に進んだんでした!(ちょっと大げさ。)まあでも後々になって気づいてみたら、美術は更にずっとずっと混沌としていて全く持って訳のわからない道だったんですが...。もう完全に後の祭りです...。(( ;゚д゚))アワワワワ。いずれにしろ、言語化した論理や理屈でものを考えるのは好きではないし、頭でっかちは嫌いデス!そんなつまらない「アタマで考える」なんてやっぱり捨ててきます!もう一度、基本に立ち戻って、「ココロで感じる」ように生きてみます!空想イメージの中をどこまでもたゆたう、そんな夢見がちでぼんやり生きるのが人生の目標なのですから。(´・ω・`)