感動できないアート、感動するカワイイ。

現代美術は、曲者です?!

現代美術(コンテンポラリーアート)は、曲者(くせもの)だと思う。
というか、現代美術はもう必要ないんじゃない?とか、世の中を変える力どころか世の中に訴える力すら、もう全然無くなってるんじゃないかと思う。アートが力を持っていた時代なんて、きっとずっとずっと昔に終わってる。今のアートは過去の亡霊にしがみついてるだけかも?!
現代アートはとっくの昔に現実に追い抜かれてると思うのです。現実に起こる事件や社会現象、エンターテイメント、テレビや映画、音楽、そしてネットサービスによる全く新しいコミュニケーションの出現、はたまた2ちゃんねるまで、全部現代アートより先に行ってしまってるよ、きっと。
だからいまや現代美術なんて、美大美大出身者や学芸員や評論家などアート信望者の間だけしか影響力を持ち得ないんじゃないだろうか?こむずかしいコンセプトをうたったり、そういうアカデミズムな流れで着眼点や視点が新しいとかで評価されたり。そんなアカデミズムな価値観に捕われているのがアート業界であるとしたら、そんなものは全部なくなっちゃえ!とさえ最近は思うようになっちゃいました。(そしてこれを美術教育の現場で働いている友人に最近言ってみたら、軽く引かれましたよ。)
しかもそんなアートがなんとなく高尚なものとして扱われていて、作品や作家をありがたがる風潮はとにかく鼻もちならないカンジなのですよ。もしかしたらアートはそうした高尚でインテリジェンスでありがたいものというスタンスで、お金持ちとかを相手に延命をはかってるのかもしれないなあ。でもまあ普通の人は、既に現代美術の展覧会なんて行かない気がするし、ピンと来ないかもしれないんだけど。たぶんこれは自分が美術を学校でちょっとだけかじっていたことがあるから、それで鼻についてしょうがないんだろうけどね。
たしかにすごい現代アートもあるとは思う。よくここまでやったなあとか、すごい執念だとか、そういうカンジで感心したりすることはある。でもそれは感動とはちょっと違うんです。

「感心」はするけど「感動」しないコンテンポラリー。
これが現代アートの陥った一番の問題かもなのです。(ちなみにこのコトバ、inuimuさんの「感心するけど感動しないこんてぽらりーっ!」からのまんま受け売りデス。つやつやが前々から思っていたことをズバリ指摘してくれてる!と思ったので。)

「感動」する表現を求めて。

で、やっとここからが今日の本題なのです。(前置きで疲れ気味ですが...)
作品や表現は、ココロに響く「感動」があるかどうかが大切なんだと、つやつやは前々から強く強く思っているのです。で、そういう表現は何か?という疑問がココロにずっと引っかかっていたのですが、その中で自分なりに出した答えのひとつ、それが「カワイイ」という概念〜〜〜。
カワイイ〜〜☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚キタ〜!

まあちょっと大げさなのですが、カワイイってのは、現代アートと対極にあると思う。
カワイイは、決して権威を振りかざしたりもせず、コンセプトとかアカデミズムなども寄せ付けず、純粋にココロに働きかける表現!いつだってカワイイかかわいくないかは、理屈ではなくて本能的に感じる感覚なのです。これは素晴らしい!


さらに「カワイイもの」の中でも、つやつやが素晴らしいと思うもの、そんなもののひとつに「手芸」があります。自分が楽しむ為であったり、友人や家族に喜んでもらうために、バッグをつくったりマフラーを編んだりぬいぐるみをつくったり。「友人の家庭に赤ん坊が産まれたのでお祝いにあみぐるみを編んみました」みたいな動機による作品制作には、その制作動機からして純粋でカワイイではないですか!!!もうそんなふうにして人のために作るという制作動機の純粋さがあるものは、間違いなく「カワイイもの」であり、感動せずにはいられないのデス。
さてここで制作動機という話が出たのでさらにひとつ補足というか、蛇足を。自分の作品制作においてもそうだし、美術やってる人のもしかしたら大部分かも?とか思うんですけど、「なぜ作品制作をするか」という問題が昔からある(ように思う)。このことを考えると、けっこうこれが結局は自己顕示欲であったりして、「どうコレいいでしょ褒めてね」なエゴなんだろうな〜と思うことがあります。こういう点からいっても、アート作品より手芸のほうが純粋で感動できるって思っちゃうんですよね。


そんな訳でまとめ。
カワイイものはイイ!カワイイものは世界を救う!!!
!**・゜゚・*:.。..。.:*・ ゜(゚∀゚) ゚ ・*:.。. .。.:*・゜゚・* !!





あっ、最後に、つやつやのやってる活動、「カワイイもの好き部。WEB」ヨロシクです。(といっても、最近はすっかりご無沙汰ぎみなのですが...。)

カワイイものを考える。

カワイイもの好き部。KAWAIIMONO LOVE!


カワイイものはいい。とにかくいい。もうたまらない。
カワイイものには、コムズカシイ理屈も説明もコンセプトも必要ない。言葉も説明も必要ないし意味がない。カワイイはダイレクトにココロに響く。とてもプリミティブな、本能にちかい部分の感情で受け止められる。カワイイは決して攻撃的であったり排他的であったりしない。むしろカワイイは平和主義であり、ある意味、愛でさえあると思う。だからカワイイという感情、そしてカワイイものはとっても素敵なのだと思います〜。
☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚

もうひとつおまけに、☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚


そういや「はてなダイアリー」では全然、アスキーアート(AA)を使用している人を見ないのでAAを入れてみましたよ〜。かわいくなったかな〜〜?(*´Q`*)
だからとにかくカワイイものはイイ!カワイイものは世界を救う!!
!**・゜゚・*:.。..。.:*・ ゜(゚∀゚) ゚ ・*:.。. .。.:*・゜゚・* !!

「愛着」について、「音楽」から考えてみた。

PHILHARMONY 感じるなつかしい未来


音楽には大きさと重さ、手触りが必要なんじゃないの?

昔からちょっとココロに引っかかってるコト。
それは「音楽」には、触れることができる物質としてのきちんとした「大きさ」が有った方がいいんじゃないかってこと。もちろんもちろん「音楽」自体はカタチのないもの。それはわかる。でもいわゆるミュージシャンの発表したアルバムとかシングルとかそういうものには、きちんとした「大きさ」があった方がいいと思うんだよな〜。

これはジャケットというカタチで実現しているんだけども、この大きさがいわゆるCDジャケットはちょっと小さ過ぎる気がするんですよね。やっぱりレコードジャケットぐらいの大きさが、音楽にふさわしいと思うんです。ずっしりとしたレコードジャケットこの大きさ、重量感、手触り。これがその中に封じ込められた音楽と僕たちのコミュニケーションに必要なんじゃないか。その重さや大きさが音楽の重みにもなっていて。そして手に持ったずっしりとした感じや、手触り。さらにここに汚れがついたり、角が折れたり、日に焼けたりして、これらが僕たちの大切な「愛着」に変化していくと思う。「愛着」というココロの深いところまで降りていくには、やっぱりレコードの大きさが必要なんじゃないかと。

その後レコードからCDへとメディアが変わってサイズが縮小したことってのは、音楽への僕たちの(心理的な)接し方にも変化をあたえてるんじゃないかと。音楽が軽くなって、音楽が消費する商品でしかなくなっていく。さらに最近は、i-podとか音楽がデジタル化しちゃってi-tunesでダウンロードして聴いたりするんだろうけど、遂に触れるカタチが全然なくなってる。これで大丈夫なの?音楽たちはこれで満足なの?みたいな。
レコードだった頃の音楽と、デジタルの音楽は、もう全然別のものになちゃったんじゃないかと。もう昔のように「愛着」の対象としての音楽は消滅してしまっていて、今や音楽が消費される「商品」に甘んじることを良しとしたってことなのかな?コンビに行ってもどこ行ってもBGMで音楽が溢れてる昨今ですけど、これこそは音楽が消費される商品になった証かも。
こんな感じの疑問がずっとココロに引っかかってたんで、書いてみました。


つまりデジタルは「愛着」を必要としてないのかなと。

いろんなものが利便性を追求してどんどんコンパクトになっていってる訳だけど、音楽でも映像でも文学でも遂にデジタルになるに至っては、完全に大きさを脱ぎ捨ててしまってますね。パソコンやi-podに何万曲でも何万冊でも入る。これはアナログの時にはあった筈の「愛着」という「ココロ」の拠り所を切り捨てた、便利な「商品」として「アタマ」で楽しむものになっているってことじゃないだろうか?
この文章が載っている、このインターネットなんて完全にデジタルだから、大きさ、重量感、手触りのみならず、世界の距離や時間まで完全に消し去ってる。インターネットで見られるページには奇麗だったりセンスが良かったりするものはゴマンとある。だけど、「愛着」を持てるページっていわれても、ぱっと思いつかない〜。


まあつやつやが古いタイプのニンゲンといわれれば、それまで。アナログなものが持つ物質感とそれへの「愛着」に固執してるだけかもしれないデス。けど人というのがアナログな存在だから、完全にデジタルな環境は人にストレスを与えると思うんだよな〜。電脳空間に生きられるわけじゃないしさ。

まあそんな訳で、今回も相変わらずまとまりのないまま、強引に終わらせていただきます〜。


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「アタマ/ココロ」「男性原理/女性原理」とか。

まず最初に断っておくと、物事を二元論で考えるのは良くない!と常日頃から感じるんだよね。「善/悪」とか「生/死」とか。二元論ってのは物事を一面だけにバッサリ編集して論じる事でしかないから全然ものごと全体は見えないから。(そして二元論こそ、今回のテーマである男性原理的な考え方でもあるし。)そうは思っていても、二元論って解りやすいし説明しやすいから、ついつい利用しちゃう。そんな訳で、このブログでも二元論的だったり、極論的にものごとを述べることをお許しくださいマセ。

で、本題に入リマス。世の中を捉える時に最近よく感じる事は、世界は「男性原理」ばかりだなってこと。(でもちゃんと調べてないから、ちゃんと「男性原理」を解ってないんで勝手な自己解釈になってたらお許しください。)

「男性原理」ってのは要は、物事の差異性を捉えることが特徴

分析、論理、分離、差異、個別化、能動性。これは「システム化能力」とかいわれたりしてるみたい。

「女性原理」ってのは、物事の類似性を捉えることが特徴

統合、融合、調和、芸術、創造性、受容性。


二昔まえ位に、「話を聞かない男、地図が読めない女」とかそのテの本が売れて、男脳/女脳(男性脳/女性脳)とか話題になったけど、まあそれも根本は同じ考えだったよね、たぶん。
つまりこれらが指し示す事って言うのは、物事に対して、「ココが違う」と思うか、「ココが似てる」と思うかだという事だと思うけど。これは似ているようで、真逆の反応。全然違う。
科学が発達したり、経済や政治とか文明の発展っていうのは、男性原理のおかげ。でも精神的に幸せを感じられる社会になるには、世の中の経済や利便性を追い求める男性原理の社会システムにはちょっと休憩してもらって、競争も戦争も優劣を付けるのも全部止めて女性原理的な社会に向かって欲しいな〜〜〜と。


でここでやっと、前回の記事で述べた「アタマで考える/ココロで感じる」に繋がるんだけど、
「アタマで考える」=男性原理///「ココロで感じる」=女性原理
こんな図式も成り立つなあと。

で、本当はもっとちゃんと説明をしないと、全然伝わらないんだろうけど(汗)、ちゃんと説明する能力が不足しすぎてるし、強引に終わりますよっと。

「類化性能/別化性能」とか。

でちょっと話が変わって、「類化性能/別化性能」って、最近知ったばかりのコトバについて。inuimuさんの記事で学びました。民俗学柳田國男さんのお弟子さんだった折口信夫さんが唱えたコトバみたいです。(唱えたっていっても呪文じゃないよっと。)人間の思考能力とか文化の形成を「別化性能」と「類化性能」というものに分けて考えているのですが、これもまさに同じ考えなのかなあと。「ココが違う」の別化性能と「ココが似てる」の類化性能。

◎類化性能=「共通点」を探す思考法=芸術的思考=前近代的世界観=境界を隠す闇=文脈の「飛躍」=「無意味」=詩性=(現代における)非常識
◎別化性能=「ちがい」を探す思考法=科学的思考=近代的世界観=境界を暴く光=文脈の「繋がり」=「意味」=物語性=(現代における)常識上記はinuimuさんのブログ記事「にてるを探す夢想家と、ちがうを探す現実家」から引用。
なるほどな〜。



追記//下記の文章も、なるほど〜〜と唸らされたので、引用させていただきます。(関行宏さんのブログふぐり日記「折口信夫と類化性能」より)。僕たちも古代人の思考に戻らねば!
「折口氏の研究によると、古代人は「類化」で物事を考えていたらしい。たとえば人間と熊は同じ動物だとして一体に考えることなのだという。対して近代人・現代人は、「別化」で物事を考えているという。人間と熊は違う生物として科学に辿り着くのが近現代の価値観である。」



なんでも全部、一緒になっていくなっと。


で、似てるを探す心持ちでいろいろと考えていくと、なんでもどんどん繋がっていくなあと思ったり。
以前、書いた記事《一神教多神教http://d.hatena.ne.jp/TSUYATSUYA/20080317も繋げちゃえっと。
●「アタマで考える」=男性原理=別化性能=一神教
●「ココロで感じる」=女性原理=類化性能=多神教

これから必要なのは、アタマより、ココロだなっと。

アタマとココロがあるよね、ニンゲンって。と、当たり前のように思ったり。でもこれ、世の中的には全然当たり前になってなかったかな?
アタマってのは、思考するところであり脳のあたり。物事を思考して、言葉を紡いだりする部分。分析的、論理的..、つまり理性とかいわれるものに近いかな。言葉で物事を理解している時点で、全部アタマで考えてるってこと。それに対してココロってのは感じるところで、これはやっぱり胸のあたりにあるんでしょうか?感受性っていうか、直感っていうか。非言語的なもので無意識に近いものだから、コトバに出来ないカタチのない感情とか、そういうもの。

世の中、右も左もアタマで考えなきゃならないものばかりが氾濫していて、それで世の中はギスギスしているのかも。僕らはアタマで考えるのはそこそこにして、ココロで感じて、ココロに忠実な行動をしたほうがいいんじゃない?気持ちよく、幸せに生きたいですからね。


ここで一旦、断っとかなきゃならないこととして、こうしてコトバでものごとを記述している時点で、ココロでなくてアタマで考えてしまってマス。いくら書いたにしても、書けば書くほどに一層、「ココロで感じる」からはきっと離れていってしまう。つまりは「ココロで感じたい」と考えている時点で完全に「アタマで考えて」いるんです。だから矛盾だらけ。精神は罪作りだ...。なんたる業。おそるべき原罪(( ;゚д゚))アワワワワ。

神社の空間が素敵過ぎる件。

神社っていいよネ〜。(ダヨネ〜)ときどき神社まで散歩するけど、なんかココロの中の背筋がピンと伸びるようで、とってもすがすがしい気持ちになる〜〜〜。特に明治神宮がお気に入り。鎮守の森に囲まれて、砂利の敷き詰められた参道を歩くことは至福!白い砂利が敷き詰められてたりするのもいいし、クスノキとかがご神木としてデーンとあったりするのも素敵だ。神社は、まつられているご神体(?)が丸い鏡であったりするところもキュンとくる。お寺の仏像と違い、「丸い鏡」という潔さは素敵だ!神社はお寺とちがって、コムズカシイ感じや辛気くささがないのがほんといい。
もうベタ褒め。神社でお祈りをするってのは、つやつやの精神衛生上とても大切なカンジです。

神様は多い方が断然いい?!【一神教と多神教】

TSUYATSUYA’s CuuSoo Democracy



日本に産まれて良かったな〜と思う事のひとつ。(?)それは、この日本人全般の、あやふやであいまいな宗教観〜。お葬式やらで仏教で、神頼みとお正月は神社で神道、結婚式は、神道でも教会でもなんでもござれ。いろんな神様がごっちゃになって、でも神様同士、喧嘩せずに共存してる。これは日本文化の底辺に流れる考えとして,八百万(やおよろず)の神ってなカンジの考えがあるからなんでしょうね〜。森羅万象、すべてのモノに神が宿る!!!木にも川にも土にも、神様はいるっていうわけで。だから神様はそこかしこにたくさんいるんですよ。


◎神様がたくさんいる宗教
日本古来の神道、そして大陸から来た仏教。どちらも多神教。初めから神様はたくさんいるから、神様が増えても喧嘩しない。だから、日本ではずっと2つがまじりあってごっちゃになって信仰されてた。そもそも仏教も、これまた多神教ヒンズー教をルーツに発生したんだよね、確か。ヒンズー教の神様も、ちょろちょろ仏教に登場してくるし。異なるものが共存して存在できる価値観、それが多神教。だから多神教の神様ってとってもおおらかそうな印象です。オキラク、ゴクラク
◎絶対的おひとりさまである神様。
一神教、つまりは中東産まれのユダヤ教キリスト教イスラム教のこと。この一神教ってのは結局のところ、対立と迫害、制圧の歴史だよね。それらは唯一絶対的なひとつの神が根本原則で、世界は全て造物主たる神が作ったもの。だからその神は絶対的な存在でしょ。だから、神はひとつ、複数の神がこの世に存在することなんて許されないこと。それを許したら、一神教の根本原則がひっくり返っちゃう。だから自分たちの信じている「神」以外は、どうしたって認められなくなっちゃう。だからどうしても異教徒を許容できない訳で。異教徒は改宗させるか、さもなくば迫害するしかない。それで宗教で戦争を始めちゃう。う〜ん...、なんだか一神教の神様ってのは、全部自分の思い通りにしないと気がすまない、ワンマン社長みたいですね。それにこの社長、攻撃的、好戦的で性格が悪そうに見えるんですけど...。


一神教が中東の過酷な砂漠の気候、一方の多神教がインドあたりの湿潤な気候で産まれたってのっていうのは面白いデスね。だってその土地の気候や風土が持つ性格がそのまま、神様の性格になってるみたいですもの。つまりは、そこに住む人たちの死生観や人生観、宗教観とか全部が、その土地のもつ性格から産まれた必然的なものだったのでしょう。
しかし、もしも世界が多神教だけだったならどれだけ平和だったのかなあ、と思ったり今日この頃なのです...。(*´Q`*)


そういう訳で(強引)、自分の神様を考えてみた。

だからですね、自分にも神様もいた方がいいかもとヒラめいた!!!さあさあ勝手に夢想、空想、妄想デス..。
つやつやの神様は、とっても小さくて手のひらに乗る。そして幼いしぼんやりしてばかりで、なんとも頼りない。猫に脅かされて泣いちゃうような、そんな神様。別段、つやつやのためになる事はしてくれないけど、なんかあれこれ心配だけはしてくれる。なんか、そんな神様を想像してマス〜。(これじゃあ、ちっとも神様じゃないか?)