アート鑑賞における3つの極意、みたいな。

【つやつやアート鑑賞法】

こんな鑑賞法で、いつもアートを見ていマス。

みなさんは、美術館や博物館に行った時、どのように鑑賞しますか?(「行かないよ」という声も多数聞こえてきそうデスが...。)つやつやには、いつからか実践している美術鑑賞の「極意」があったりします。しかしコレ、良識のある方は、かなり眉をひそめそうな極意デス。借りにも美術をちょこっとカジッたことのある人間が言う発言には聞こえないだろうなあ...。美術を愛している人なんて、コレを聞いたら怒り出すかも知れません...。しかしこれ、かなり有効な鑑賞法だと思うのです〜。ではでは、その鑑賞法をちょこっと解説させてください。( ゚Д゚)

極意その1「期待しない」

まず一つ目の極意、「期待しない」!こんなにも世の中にエンターテイメントが溢れている時代です。テレビをつけると、面白ろ可笑しいモノがやっています。だから美術に過度な期待をしてしまうのは、とてもかわいそうというものです。意気込んで美術館に乗り込もうものものなら、ガッカリする結果を招きかねません。「もしかして何かちょっと発見があるカモよ?」ぐらいに軽く考えて、「美術館に行くついでに近くのあの公園とあのお店も行こうかな...」等々、プランを立てましょう〜。これで美術への過度の期待を分散できる筈デス。つまりはリスクの分散、リスク・マネイジメントになる訳なのデス!!!

極意その2「ちゃんと見ない」

そして会場に入ってから二つ目の重要な極意、「ちゃんと見ない」の発動デス!間違っても、最初から最後まで意気込んで全部じっくり見ようなんて思ってはいけません。そんなのは、もの凄い精神的労働以外の何ものでもありません。疲労困ぱいです。どんなに全部をじっくり見ることができたとしても、ココロに残る作品なんてのは、結局は数点しかないものです。逆に言えば、数点でもココロに響いてくるものに出会えたのなら、それでもう充分なのです。
だからですね、「ココロに響かない100の作品」を黙々と鑑賞する事に神経をすっかり消耗させてしまって、「本当にココロに響くただ1つの作品」をじっくりと味わうチャンスを逃してしまわないようにしてください。それはとっても馬鹿げたコトですよ?
具体例を出してもうちょっと詳しく説明してみます。仮に100の作品が展示されていた展覧会があったとします。これをAさんは、1作品につき30秒かけて、解説文も漏らさず読んで、なに一つ漏らさないように意気込みながら全部鑑賞するとします。反対にBさんは、これはと思った作品を5分鑑賞したら、あとの作品は全部流す!!残りの作品は雰囲気だけ味わえばいい程度でさくさくと流す〜。(雰囲気だけなら1秒見るだけで充分かも。どんどんスルー。)結果Aさんは、疲労困ぱい。しかも最後の頃には、最初の方に見た作品なんて、とっくに忘れてしまっているなんてコトもあったりします。一方Bさんは、時間を掛けずに鑑賞を終えてマス。しかもずっと胸に残る作品に出会えて大満足、なんてことになっているかもなのデス。
もう一つ注意しなければならないもの、それが「あいさつ」とか「解説」「時代背景」「年表」...とかいった文章です。こいつがなかなかのクセモノ。たいていはコムズカしい言葉でもって、「上から目線」で偉そうに書いてあったりするのデス。(あたかも美術には「権威」があるように見せかけたいという、そんな見えざる気配を感じずにいられません。)なので時代背景だったりとか、作品の手掛かりになりそうな箇所だけ拾い読み。言ってみればそれらの文章は美術館が仕掛けた障害物みたいなモノ。学芸員や評論家はこの障害物を作ることでお金を貰ったりできるのですから世の中は不思議です。こんな障害物競走に無理矢理参加させられる鑑賞者って一体...。だからですね、要はいちいち全部読まずに適当にささっと流しましょうね〜。

極意その3「少しだけ俯瞰」

最後の仕上げも重要デス!作品を最後まで見たトコロで訪れる最後の関門、それが「お土産買わなきゃ買わなきゃコーナー」(出口)。やっと作品を見終わった開放感から、ココで一気にココロを緩めるのは危険デス。急に解放されるてココロが緩むと、財布の口まで緩みかねませんヨ!注意!注意!注意なのデス。
それよりも最後の仕上げとしてやっておくべき、もっとも重要なコトがあるのです!!!それはもう一度、入口までトットコと引き返してみるということです。そして、いま一度、「ココロに響いた作品」だけを軽くおさらいしていくのデス。(この時には、それ以外の作品には目もくれずにスルーです。)全体を把握したことにより、最初よりもちょっと広い視野で鑑賞できたりします。しかも2度目の鑑賞。前には気付かなかった新しい発見が割とあったりするのデス。いってみれば俯瞰的な視点の獲得ができるのデス。
こうすることで、気に入った作品の余韻が、ずっとずっとココロに残るという、幸せな鑑賞の出来上がりです〜。

自分がイイと思ったモノ、それがイイものなのです。

そもそも「美術」とは、とりたてて高尚でもないし、偉くもないモノの筈です。(もし高尚なものだと感じているとしたら、そう感じさせようと企む何かに、まんまと騙されているのかもしれませんヨ。)重要なのは、「自分」で感じるコトだと思います〜。結局のところ、「自分がイイと思ったモノがイイ。」これしかありません。イイと評論家が言っているモノだからって、合わせて自分もイイと思う必要は全然ありませんヨ。
だから、こういった自分なりの鑑賞法の方が、真の意味でイキイキ、美術を鑑賞できると思うのです。騙されたと思って、試してみてはどうでしょうか〜。( ゚Д゚)




※ちなみに今回の記事は、つやつやビジョンBLOGに以前書いた記事「こんな鑑賞法で、いつもアートを見ていマス。」(2006.8.19投稿)を加筆修正して掲載致しました。




【頭のネジが】神様が産まれる季節。【緩みっぱなし】

神様が産まれる季節。


今から言うともう2週間ぐらい前(3月の終わりから4月の始め)のことですけど。
うそみたいに突然に春の陽気が僕の周りを包み込み、桜の花は一斉につぼみを開き始めてました。頭上からは、ぽかぽかとした優しい太陽の祝福。冬の間じっとしていた世界が、それに答えるように一気に弾け出す感じ。日中に外を歩いていると、街路樹も草花も電柱もポストも、みんなほこほこと笑い出して見えたのです。鳥や昆虫や風が、挨拶をかわし通り過ぎていく気までしてきて。もうなんか、世界は祝福で満ちあふれているのです?!

――そんな陽気に誘われるようにして、初々しい神様たちが一斉にこの地上へと降り立つ――。


そんな気分で空想『神様と赤い手袋。(ドリームぽろぽろ。空想ダイアリー)』もココロに浮かんでくるし。なんか本当に、そこかしこに神様がいるようなそんな気分になったのです。ただ道を歩いているだけで、もう幸せな気分に包まれてしまいました。いやもう春という季節のこの躍動感ったらないですね。冬の寒さに耐え続けていた大地や風や動植物の生命力が一気に吹き出してくる感じ。そんな陽気のおかげで、僕のアタマのネジは一気に緩みっぱなしでフルスロットル状態。無駄に幸せ感に浸る浸る。恐るべき「四月馬鹿」の出来上がりデス。

僕たちは神様に見守られて生きている(かも)。

でもこうして自然を肌で受け止めると、神様はそれこそ八百万(やおよろず)の神という位、世界に満ち満ちているなって思えるんデス。これはとっても良い空想。平和なココロで見る妄想。残念ながら先週は雨の日が多くついに桜も散っちゃって、僕の緩みまくっていたアタマのネジも元のようにしっかり締められたみたいデス。おかげであんなに肌に感じた神様の気配もなくなっちゃいました。でもこの四季の豊かな変化をもっと肌で感じ取るようにできたならば、僕たちは常に神様の存在を感じ続けていられるかもしれない!と思いました。もっとずっとココロを研ぎすましさえすれば、ですけどね。それこそが日本の四季から僕たちへの何よりも素敵な贈り物な気がしていマス〜。☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚


※最近は「神様」のことをちょくちょく考えたりしているつやつやですが、念のために言っておくと、宗教に目覚めた訳では全然ないデス。自分が幸せに生きていくための「自分の神様」、「世界の神様」をぼんやり空想しているのです。だって空想がつやつやのココロの栄養だから...。だから教祖様を目指している訳でも霊媒になりたい訳でもないデス...。( ゚д゚)空想LOVE!

歴史って、都合良く作られるみたいデス。


正直に言って、自分はチベット問題についてちっともわかっていない。何が今まであって、そして今、何が起こっているのか?そういう全部を全部、何も知らないで今まで生きてきました。だけどちょっとネットで調べてみただけでも、1950年に中国が侵略して以来、中国による非常に残忍な弾圧や虐殺が繰り返し行われ、一説では現在まで120万人も虐殺されているとも言われています。まあナチスホロコーストさながらのことが今も続いてるってことみたいデス。そして、その虐殺手段がどれだけ惨忍で卑劣であったかを糾弾するサイトも多数存在しています。(もちろん中国はそもそも侵略ということ自体を認めてないわけですけどね。)

こういう事件を聞いていつも感じるのは、自分では何一つ、その真実について確かめる術がない歯痒さ。たとえば南京大虐殺という「歴史的事件」が今も度々問題になっていますね。中国側が30万人が虐殺されたと主張する一方、それを全くのねつ造だと主張する人々も存在したり。捕鯨問題でも、原発問題でもいつもいつも不信が募るばかり。(ねえねえ、原発ジプシーっていうのは本当なのデスカ?教えて誰か!!!(( ;゚Д゚))...。)とにかくいったい、真実は何なのか?まったくもって世界はわからないことばかり。


そもそも「歴史」の真実ってどこかにあるのだろうか?いやいや、待てよと。そもそも真実ってなんじゃらほい?...う〜ん、考えれば考えるほど分からない!もし仮に歴史に「真実」というものがあったにしても、きっと神でもないかぎりそれを見ることなんて出来ないんだろうしなあ〜。しょんぼり...。こういうことを考え始めると、僕はいつも黒澤明監督の「羅生門*1という映画を思い出します〜。登場する人物全てが全く違った証言を述べ、何一つ真実らしきものが見えない物語。まさに迷宮を映画にしたような作品です。真実なんてものは、その当事者自身でさえ決して掴むことが出来ない、そんな幻のようなものかもネ....。(( ;゚Д゚))ガクガクブルブル
結局、歴史とは,勝者や政治家や、無数の「大人の事情」によって書き換えられ続けていく、そんな都合のいいモノでしかないのかな...?こういった歴史を前にすると、いつも僕はそんな風な無力感に包まれてしまいますよ。。。あ〜こういう気持ちはどうしたらいいんだろ...?ただただ悶々とっするばかり...。(´_ゝ`)....。
....と、今回はひたすらボヤきでしたよっと。ゴメンね。

*1:黒澤明監督「羅生門」1950年製作。原作は芥川龍之介の短編小説『藪の中』。

ダライ・ラマの心にはそれでも平和があるようデス。

歴史的?


ウニさんのblog「壊れる前に…」の記事「ダライ・ラマの心の平和」を読みました。

チベット問題の渦中で注目されているダライ・ラマ14世が、自身の現在の心境についてインタビューされた時の発言です。以下、引用させて頂きます。

「私が怒りや憎しみを感じても、それはチベットの人々の助けにはなりません。そして、それによって私の内的な平和が壊されてしまいます。憎しみはそれを感じる人を壊してしまいます。頭の中には心配や不安がありますが、私の心は穏やかです。ちゃんと1日8時間眠っています。」

小説や映画などでは「憎しみは何も産まない」とかなんとか使いふるされたセリフがありますが、でもこの今のチベットは小説でも映画でもない。現実に起こっていること。そしてこのような状況下にありながらも、『憎しみはそれを感じる人を壊す。』と発言するダライ・ラマ14世。人間としての偉大さに衝撃すら感じます〜。こういうココロの人間ばかりなら戦争はすぐになくなるのに。
チベットに早く平和が訪れるますように!!!今はそれしか言えません...。

消費という幻想物語から、愛着を軸にした物語へ。

つやつやの価値観プール。

僕たちは、物語という霞(かすみ)を食べて生きている。

僕たちは生活の中で日々、次から次とモノを買っています。そして買っては、次から次とモノを捨てています。これがいわゆる消費社会ってやつのこと。そしてこれ、もんとうに無限に買っては捨てての繰り返しをしなきゃならないみたいなんデス。なんで買っては捨ててを繰り返すのでしょうか?最近では「もったいない」なんていう日本古来の思想が見直されてきていても、それでも僕たちは消費を止められないみたい。人間とは買っては捨ててを繰り返さなきゃ生きられない業の深いイキモノなのかしら?とか思ったり。でもこのことをぼんやりユラユラ考えていくと、そもそも僕たちが消費している「モノ」とは何なのかという疑問に、ドカッとブチあたります〜。ドカッと。ひゃ〜、痛い〜。

僕たちが消費している「モノ」。これは単に「物質」としての意味だけのモノでもないし、「機能」としての意味だけのモノでもないと思います。僕たちが本当に買っているのは、モノが持っている「物語」なのではないでしょうか!!!「物語」っていうのはモノが持つ付加価値みたいなもののこと。解りやすい例で言えば、ブランド品。ブランド品がなぜ人気があるかと言えば、そのブランドであるという「物語」がそのモノの価値を保証してくれているから。そのブランドを所有することのステイタスという「物語」を雑誌やメディア、そして同じ価値観を持つ人々が共有しているから。あるモノを所有することで一緒に得ることが出来るステイタスや利便性、流行とか優越感とかいろいろな「物語」を、モノと一緒に買っているのです。いや、これはむしろ、モノを買っているつもりが、本当は「物語」を買っているのです。どこどこのブランド品だとか、イタリア産だとか、限定品だとか....。モノそのもの自体が持つ、物質・物体としての存在や、機能という特性を超えて、そこに意味や付加価値をつけること、それが「物語」なのではないでしょうか。(「共同幻想」と言い換えてもいいんだけど、「物語」のほうがよりつやつやのココロにしっくり馴染む言葉です〜。)

現代の物語は、僕たちを騙してるかも?

で、まあモノに物語があるのはいいと思います。問題はモノに乗せてどんな物語が紡がれているかということデス。これを考えると、結局、消費社会とかいうものの仕組みにブチあたる感じがしてならないのですが....。(でも経済学とか社会学そういう真面目なのを勉強したことがないから、全部つやつやの思い込みで書いているんで、的外れだったらどうしよう...。)
この社会全体が、どんどん新しいモノに買い替え、最新のものを手にすることが素晴らしいと錯覚させるような仕組みになっている。モノを生産・消費することで貨幣が世の中を循環する。それが消費社会だか経済だか資本主義だか、まあ良くはわからないけど今の社会の仕組みだろうしね。新しくモノが売り出されるたびに、そこには「快適な生活」や「時代の最先端」とかそういう「所有することであたかも幸福を手に入れられるかのような錯覚」を産む物語がうたわれる。と、ここまで書いてきて、なんかだんだんと陳腐な社会批判になってきてる?!反省。なんか中二病ぎみ...。ううう。
...そんな訳なので、批判はこのくらいにして、じゃあどうすればいいの?というのが、今回の主題なのです。最近、前置きが長くて疲れるなっと。
というわけて続く


愛着。それは未来へ引き継いでいく物語。

もしも現代のモノが、消費社会の論理に毒された「物語」を持ってしまっているとしたならば....。もしそうであったならば、僕たちはモノが本来持っていた「物語」を取り戻す必要があるんじゃないかなっと。じゃないと僕たちは買っては捨ててを繰り返すばかりに追われちゃうんじゃあないですか〜!ヾ(*`Д´*)ノ"彡☆キィィィ〜!!!
考えてみれば、そもそも昔の生活ではモノにはキチンとした「物語」があったはずです。例えば祖母から受け継いだ食器、時計とか、誰々さんが育てた野菜とか、どこどこの大工さんに建ててもらった家とか、それぞれに「物語」が刻まれていたモノたち...。そうした物語を持ったモノだからこそ、人々はそれを大切に使い続け、そこには自然と「愛着」が産まれていき、そして受け継いできた「愛着」あるモノをさらに未来へと引き継いでいくのです。だから現代のように簡単にはモノを捨てないだろうし、むやみに新しいモノも欲しがったりもしないのでしょう。
しかし現代はどうでしょう?効率よく大量生産することによる経済性を最も優先した社会構造。そこでは、それまでずっと続いていた「愛着」を軸にした美しい物語は、時代遅れとして捨て去られてしまい、代わりに「消費」こそが美しいんだと主張する「消費信仰」を僕たちに植え付けてしまっているんです。
だから僕たちは今こそ、「愛着」というものの価値を改めて見つめなおし、「愛着」を軸にした美しい物語を新たに紡ぎ直す必要がある!と、強く強く思うんデス〜〜〜〜〜。
(´・ω・`)愛着LOVE!!!




どうやら人生はじっと佇んでいて、時間がまわりを巡っているようです。

人生はもしかして小さな庭なんじゃない


前回の「時間はもしかして丸いんじゃないか論。」で時間は丸いかもって話をしたんですけど、今回はそこに関連して、つやつやの思う「人生」というやつのカタチについて書いてみます〜。

人生という遥かな旅路?なんかもう涙目。

「人生。」人生ですよ、人生。このなんだか凄そうなものをつやつやが思い浮かべる時、以前は道みたいなものをイメージしてました。人生とは時には曲がり角や坂もある、そんな道を一歩一歩踏みしめて進む、遥かな旅路というイメージですかね〜。そこを僕は進んでいるんだと。困難な道を切り開いたり、回り道や行き止まりの道を引き返したり、僕たちは苦労して野を超え、山を越えて進む。人生とはなかなか思い通りには行かない道行き。立ち止まってしまったら、前に進めなくなる、そして後から来た人に追い抜かれていく。ああ、なんだかこれじゃ、水戸黄門のオープニング曲 *1です。♪♪♪泣くのがいやなら〜  さ〜あ〜歩け〜♪♪♪もうなんか涙目です。必死です。だから追い抜いたり、追い抜かれたり、必死に人生の旅路の競争のなか、頑張って歩かなきゃならないんだと思っていました、それが人生なんだなと。
つやつやが去年ハマりにハマった「赤毛のアン」でも、主人公アン・シャーリーは人生の大きな決断をする最終章*2でこんな事を言っています。「私の未来は、まっすぐな一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。」いや〜、このアン・シャーリーの決断、生き方には泣けましたよ。話が脱線してきたけど..。

人生はもしかして小さな庭なんじゃないか論。

だけど最近は人生に全然違うイメージを思い浮かべるようになりました。人生はそんな風に前に進むものなんかじゃなくて、初めからここにただずっと存在していて全く動かないものなのじゃないか。それは言ってみるならば「小さな庭」みたいなものだと思うようになったのです。僕が産まれる前から、その人生という小さな庭はずっとそこに存在している。そう考えてみると、僕たちはどこにも旅立つ必要なんてないと気づきます。旅路じゃないのだから当然、競争したり、坂道を上ったり、道に迷ったりとかそんな面倒はないのです。小さな庭はいつだって僕のそばに変わらず存在しているからです。
そしてその小さな庭には四季が巡ります。以前も言ったように時間は丸いので、その庭の周りをまわることもある筈です。春夏秋冬の季節と時間が巡って、草花が芽吹いたり、花をつけたり実をつけたり。いろんな動物や昆虫もやってきます。鳥の運んできた種から、次の春になって思いがけない花が咲いたりします。そういう植物や動物達との出会いのなかで生きること。そして当然ですが、小さい庭は僕の庭である前に、動植物みんなの庭でもあります。たくさんの関わり合いのなかで人生という庭の季節は移ろうのです。

ちなみに僕が人生は庭なんじゃないか?と思い至った、そのキッカケ。それは、どいかやさんの絵本『ハーニャの庭で』でした。これはハーニャという猫とニンゲンと暮らす庭の四季の移ろいを描いた物語です。季節の移り変わりや草木や生きものの1年を描いている、この小さな小さな物語は、しかしながら森羅万象のような大きな大きな世界の息づかいが聞こえてきます。そしてつやつやはハッとしました。この庭、この庭はそのまま人生なんじゃないかなって。



そんな風に人生をイメージしてみるとどうでしょう、なんか肩肘を張らずに生きていけばいいんだなって気がしてくるから不思議です。そして大切なことっていうのも、おのずと変わってきます。どれだけ遠くに行けるかとか、どう楽な道を見つけるかとかそういうことじゃなくなります。自分の庭に何を植えてみようかとか、今日はどんな昆虫や小動物が訪ねてくるかとか、自分の庭を見るのが浮き浮きしてくると思うんです〜。
ウッキウキの能天気〜!
☆-*・゚(●´∀`●)ホェ--*・゚☆-*・゚

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*1:水戸黄門のオープニング曲「〜ああ人生に涙あり〜 」人生楽ありゃ 苦もあるさ 涙のあとには 虹も出る 歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道を ふみしめて 人生勇気が 必要だ くじけりゃ誰かが 先に行く あとから来たのに 追い越され 泣くのがいやなら さあ歩け

*2:赤毛のアン》第38章「道の曲がり角」

時間はもしかして丸いんじゃないか論。

時間はもしかして丸いんじゃないか論。


「時間はもしかして丸いんじゃないか論。」とか大きく銘打ってみたはいいけれど〜。今回はつやつやの考えている「時間」について解説しようという試みです。(ニーチェだかが言っているらしい永劫回帰?だか時間の円環的構造?とかとは全く関係ありません。それと輪廻転生にも全く関係ない話デス。)
どうなるんだか(( ;゚д゚))アワワワワ

時間は丸く円を描いてやってきます。

まず、みなさんは「時間」をどう捉えてますか?つやつやは昔は「時間」て直線だと思ってたんですよね。これは自分だけじゃなくて、大抵の人が、そんな風に直線的に捉えている思うんですけどね。過去から現在を繋いでさらに未来まで、一直線に伸びるまっすぐな線。小学校でも歴史の授業では、いつ何が起こったのかを1本の時間軸にそって整然と羅列してる「年表」なるものが登場する。なるほど一列に並んでいるから理解しやすい。今を起点に過去と未来がどんどん伸びていく。なるほど合理的。
でもある時から本当にそうなのか?とか疑うようになってきたのデス。もしかしてもしかしてもしかして...。「時間」て丸いんじゃないか!!!と思ったのです。そうです、時間は円を描いてるんです。ぐるぐる回っているのです。そんでまたもとの位置あたりに戻ってくるかんじです。更にこれがもしかしたら単に円で回ってるんじゃなくて、螺旋上に上がって位相がズレていってるのかもしれないと思ったり。
だって考えてみてください。僕たちの生活にとっての時間とは、朝から晩へと1日1日の繰り返しのサイクルで出来ているのです。太陽が昇り1日が始まり、そして太陽が沈み1日が終わる。そして月は満ち欠けをして1ヶ月のサイクルを刻み、そして繰り返される満ち欠け、四季の移り変わりによって1年というサイクルが生まれ、それを繰り返していきます。地球は自転をして、月は地球の周りをまわり、地球は太陽の周りをまわり。太陽系も銀河系の中でまわり。僕たちを包む宇宙全部が繰り返しの偉大なサイクルを描いている。そんなサイクルが、僕たちを未来へ連れて行ってくれるのですよ〜。だから時間のカタチも天体や宇宙と同じようなカタチをしているに決まってるじゃないですか???そういや時計が丸いのだって、時間が丸いせいかもヨ!?え?違う〜????

時間とは、いつだってこの瞬間だけなのです。

まあこれはイメージの問題です。時間が円を描いていると想像してみる。そう考えるだけでも、時間や生活や人生にたいする考え方が今までとちょっと変わる気がするんです。
結局のところ、僕たちが生きてるのは「現在」という瞬間だけで、「過去」は記憶や情報とか状況証拠としての存在だし、「未来」は予測や確立や希望としてしか存在していないのです。時間なんてそんなにも不確かで、手で捉えることができないもの。だとしたら直線なんていう味気ないイメージで時間を捉える必要はないんじゃないでしょうか〜?歴史年表を見ると、長い長い人類の文明の直線があります。それに較べてなんて自分の生きる期間の短いことか?こんなちょっとの時間を与えられても何も出来ない。なんだかそんな風にさえ思えてきてしまうのです。そういう直線でのイメージ、歴史観みたいなものは、今、ここでこうして生きている僕たちの人生、そして生涯を、とても短くちっぽけではかない存在におとしめてしまう気がするのです〜〜〜。

だから時間は円を描いている、そうイメージしてみるのです。長い長い歴史なんてなくて、サイクルの中で今を生きている。そういうコトを考えてみるのも楽しいと思うのです。